「女性」の「定義」

「女性」の「定義」という、見飽きた問いについて、一緒に考えてみましょう

  1. 〈定義〉することの暴力性
  2. #SexNotGender
  3. わたしなりの女性の説明
  4. 普遍的な定点としてのsex
  5. できることをできる限り最大限に

「定義」とは

まず、「定義」ってなんなのかな。

あなたの言う「定義」の定義は? — なぜそんなことを聞くのか。シーライオニングだ。 — そんなことないよ。聞いてる理由は二つあります。一つは、「定義」ということばが適当に使われており、実際に求められているものが会話の途中でどんどんと変化していくのを何度も見てきたから 。もう一つは、「定義」の定義が非常に困難であることを指摘するため。—ならば、これはどうだ。

「定義」の定義 D(“定義”)1「言葉や物,事象をほかの言葉,物,事象で規定し,説明すること。」

だめ。いくつかの問題点を指摘しよっか。まず、「規定し、説明する」について。ある表現 “ε”を〈規定〉しながら、〈説明〉することは出来ない。“ε”の意味が確立しているのならば、その意味を変えぬまま — たとえ結果的に同じ意味を持つとしても — 〈規定〉なんてできない。そして、〈規定〉すれば、“ε”の意味は変わってしまう。逆に、“ε”の意味が確立していないのならば、それの〈説明〉を求めるのはナンセンスにすぎない。—わかりにくかったら、グランドに白線で四角をかくことを考えて。あなたができるのは、すで引いてある線があるならそれを真似るにせよ、完全に新しく引き直すにせよ、とにかく「引き直す」か、あるいは、すでに引かれた線を指さすことだけ。

これを無視したとしても、なお問題が残る。その〈規定〉にせよ〈説明〉にせよ、「ほかの言葉」でさえあれば、その妥当性は誰も判断しなくてよいの?聞き手らの同意も、説得することも、わたしがこれを「真」であると信じていることすらも、必要とされていないけどいいの?じゃあ、これでもいいよね:

「定義」の定義D(“定義”)ぴよよよん「ぴよよよん」

ふざけるな。辞書を見ろ。— 広辞苑には次のように書いてるね:

D(“定義”)2:「概念の内容を明確に限定すること。すなわち、ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること。その概念の属する最も近い類を挙げ、さらに種差を挙げて同類の他の概念から区別して命題化すること。…(新村, 出. (2008). 『広辞苑』, [第六版]. 岩波書店. )」

ここでも、妥当性は問題にされていない。ならばわたしの定義になんの問題があるの?―こんなの言葉遊び。常識でわかるだろ。 — そもそも「定義」の議論など、最初から最後まで言葉遊びなんだよ。この会話が終わる頃には、あなたにもそれがわかると思うよ。でも、それはともかくとして、常識でわかるだろ、というのなら、わたしも「女性の定義」について、おなじことばをあなたに返したい。そして、真剣に考えてほしい。ま、おそらくわたしの〈定義〉にも〈説明〉にも、あなたは今はまだ納得はしてくれないだろうけどね。

〈定義〉と〈説明〉

待て、〈定義〉と〈説明〉は同じ意味だろ。 —ううん。 いったん、「定義」の〈定義〉の話はごまかして、純粋に〈定義〉というものについて、もう一回考えてみよっか。わかりやすいように「りんご」の 〈定義〉と〈説明〉についてかんがえてみましょ。まず、〈説明〉から:

「りんご」の 説明E(“りんご”)1:「あかくてまるくてあまいくだもの」

じゃ、このとき、あおりんごは、「りんご」でしょうか。この〈説明〉では、「りんご」にあおりんごは含まれていないよね。でも、わたしたちの社会(言語共同体)では、あおりんごはりんごであると認識されるし、実際「りんご」という表現をあおりんごを指すためにも用いてる。そこは異論ないでしょ?—じゃ、修正されるのはどっち?当然のように、〈説明〉の方です。

「りんご」の 説明 E(“りんご”)2′:「あか色、あるいはみどり色の、まるくてあまいくだもの」

じゃあ、今度は〈定義〉について考えようか。「りんご」の 定義D(“りんご”)1のように、「りんご」を〈定義〉するとしましょ。このとき、あおりんごはどうなると思う?

「りんご」の 定義D(“りんご”)1:「あかくてまるくてあまいくだもの」

あおいりんごは、ここではやはり含まれてないよね。 —同じように D(“りんご”)1:を直せばいいだけだろ 。— そう?ほんとに?あなたは、先ほどD(“定義”)1で「規定」という言葉を使いました。『広辞苑』による定義D(“定義”)2でも「概念の内容を明確に限定すること」と書いていました。 — で? — D(“りんご”)1によって、「りんご」は赤色であると、「規定」にせよ「限定」せよされてんだよね。じゃあ、あおりんごは「りんご」ではない。だって、そう決めましょうねって言うのが、〈定義〉なんだもん。

「定義」ってなに?

じゃあおまえの言う「定義」の〈定義〉を、示してみろ。 —ま、正直そんなの無理だと思うんだよねー。厳密に「定義」を〈定義〉しようとすると、無限後退するよ。なぜなら、厳密に定義するためには、定義された表現のみを使用しなければならないが、この場合「定義」の定義以前に定義に使用する表現をすべて定義していく必要があるし、そもそも「定義」を定義するには、「『定義』の定義」の定義も必要になる。―でも、いったん受け入れてもいいような〈説明〉は出来ると思う。

「定義」の説明E(“定義”)3:「表現εの定義とは、あるディスコースにおいて、それに参加している集団Gにおいて共有知識になると発話者が想定し、かつそれについてGの構成員間で合意が期待されるεと発話者の信じる、使用方法に関する言語的ないしは記号的表現を通じてなされる取り決め行為、およびその行為の再現。」

もうちょっと簡単に書くなら:

「定義」の説明E(“定義”)3′:「ある表現εは、ある会話において、それに参加するみんなが納得し従うと想定してなされる、εをどう使うの言葉や記号的表現を通じてなされる取り決め行為、または、過去にされた取り決め行為を再現すること。」

この説明を、以降のこのブログ記事に限定して〈定義〉とすることにも、さほど問題もないと思う。ただ、それはこのブログの外において、どれほど妥当かはわからない。だって、他の会話で「定義」ということばを口にする際、これに「みんなが納得して従」っているかなんてわたしにはわからないし、ましてや、それを取り決める権威などわたしにはないから。「定義」の〈定義〉の問題をおいておくとしても、わたしに出来るのは、わたしが妥当であると思う範囲で、誠実に「定義」を〈説明〉し、それをもとに、「今からこの文章では、こう『定義』ということばをつかいますよー」と取り決める程度だけ。

「女性」の定義

〈定義〉することの暴力性

だからなんなの? 女性の不完全な〈説明〉もまた、一部を周縁化し、それはそれとして大きな問題だよね。でも、女性の不完全な〈定義〉は一部を女性でないと宣言してしまう。しかも、わたしたちが今話しているのは、日常的な会話に使われていることばや概念としての「女性」の〈定義〉なわけだけど、それは、誰が「女性」で、誰がそうでないかに関する「取り決め行為」をしろということ。どうしてわたしやあなたに、「生物学」の何千年も前から存在する女性を〈定義〉する権限があるの(「規範性の問題」をここでは意識しています)?わたしたちに出来ることがあるとするなら、それは、可能な限り誠実な、それでも不完全な、〈説明〉でしかない(ただし、あえて「望ましい」定義を作っていくことはできると思う。Haslanger 2000, Jenkins 2016を参照せよ)。― いや、「完全」な定義をすればいいすべての女性に共通する普遍的なものを出してくればいい。—できんのそんなこと?Wittgensteinの次の言葉を考えてみてください:

§66 “例えば、我々が「ゲーム(Spiel)」と呼ぶ事象について、一度考えてみてほしい。盤上のゲーム、カードゲーム、ボールを使うゲーム、格闘的なゲーム、等のことを言っているのだ。これらすべてに共通するものはなにか?” — 「なにか共通なものがあるに違いない。さもなければ「ゲーム」とは呼ばれない」と言ってはいけない — そうではなく、それらに共通なものがあるかどうかを見たまえ。 — なぜなら、それらをよく眺めるなら、君が見るのはすべてに共通するようななにかではなく、類似性、類縁性、しかもいくつもの種類の類似性だからだ。繰り返すが、考えるのではなく見るのだ!
(ウィトゲンシュタイン[鬼界彰夫訳]. 2020.『哲学探究』. 講談社. p.75)

さあ、「ゲーム」を過不足なく〈定義〉してみて。古今東西すべてのゲームを含み、かつそれ以外のなにも含まない、完璧な〈定義〉を。それが出来たら、「女性」を〈定義〉してみて。古今東西すべての女性を含み、かつそれ以外のなにも含まない、完璧な〈定義〉を(「普遍性の問題」をここでは意識しています)。―いや、あるじゃんよ、「女性」に共通する普遍的な共通点が。

#SexNotGender

「女性」の定義D(“女性”)1「人間の雌」

待って待って。

ある女性が女性であるのは、本当に「身体的特徴」が根拠?仮にそうだとしてみよう。ここで言う「身体的特徴」は、具体的にはなんのこと?特定の臓器や機能?―では、何らかの理由で特定の臓器や機能のない女性は、その定義上「女性」ではなくなってしまうのだろか?あるいは、特定の女性は臓器を持たなくても「女性」であるのならば、この定義系のなかでその人を「女性」たらしめるものは、何?少なくともその臓器ではない。―あるいは、「特定の臓器をもつ【はず】の人」であるとしよう。ならば、この【はず】は、何によって規定されるの?「遺伝子」?「性染色体」?「性別」という概念は染色体が「発見」される前から、あるいは「発見」された後にすら、性決定の仕組みすら全く異なる動植物にすら適用されてきているのに、「性別は染色体によって規定されるものだ、高校生物からやり直せ」という主張がどこまで妥当性のあるものかは疑問でしかない。結局、どんな規定の仕方をしても、上述の議論を越えられないんだよ。―そもそも、ヒトの性決定の仕組みはそんなに単純ではないよ。Lockhartさんの記事や、Scientific Americanによるこちらの記事、あるいはAnne Fausto-Sterlingの『セックス/ジェンダー―性分化をとらえ直す』なども参考に考えてみてほしいです。

「女性の身体」など、無い。あるのはさまざまな女性のさまざまに異なる多様な身体と、「女性」に、おそらくは生殖至上主義や家父長制を正当化し推進し、そのためにわたしたちを管理するために、恣意的に結び付けられてきたいくつかの特徴があるだけ。確かに、伝統的に「女性」に結び付けられる特徴や経験が軽視されたり、排除されたりしてきた。それらのないことが、社会的地位や力の条件とされてきた。その結果は今もわたしたちを苦しめ、殺し続けている。だけれども、わたしたちはその規範を再生産して一部をさらに排除し続ける必要などない。どんな特徴のある身体であっても、わたしたちはわたしたちが望み、イメージする姿に可能な限り近いそのままで、一切の不平等を経験せず、自由にかつ自律的に生き、選択し、権利を行使できるべきである。

は?ちんことまんこは同じってこと? —そんなこと言ってないよね。 わたしは、ここで「さまざまに異なる多様な身体」や、「恣意的に結び付けられてきたいくつかの特徴」があることは否定していない。ただ、多様な身体の多様な特徴に名前をつけ、類型を想定して区分し、さらにそれらを「性別」等の概念と結びつけられてきたこと(これもやや雑な書き方だけど)は、家父長制や生殖主義のなかで形成された恣意的(arbitrary)な結びつけの結果でしかないと、わたしは主張してる。―わかりにくい?じゃあ、例を考えてみよっか。目の前に、(a)「黄色い三角形」、(b)「黄色い四角形」、(c)「緑の三角形」、があるとします。では、この(a)はどれと「同種」でしょうか?色が同じ(b)?同じ三角形だから(c)?いずれの「説」をとっても、色やかたちの異なることは変わりません。ただ、「種」を考えるときに「何に着目しているか」が異なるだけ。―いや、(b)「黄色い四角形」と(c)「緑の三角形」は全然違う! — 本当にそうかな?じゃ、さらに、(d)「ドリトス」と(e)「とんがりコーン」があると考えてましょう。こう見たとき、本当に、(b)と(c)ってそれほどに異なりますか?「全然違う」と思うのは、ただ、あなたがこれまでに見聞きしたこと、今意識していること、あるいは社会全体として一部の存在を「無視」してきたことの結果にすぎないでしょ。―言葉遊び。おまえはgenderの話をしているだけ。こっちはsexの話をしている。「男の身体」と「女の身体」は生物学的に異なる 。— わたしとあなたは、おそらく指の長さも、髪の細さも「生物学的」には異なります。でも、「生物学的な性別」などと言うとき、あなたたちはそれを無視するよね。そして、一方で生殖結節がどう分化したかや、子宮の有無などに着目して「身体」を区分し、理解し、説明するよね。 何に着目し、どう「身体」を「性別」と結びつけて理解するかは、時代や社会、そしてそれらに影響されたわたしたちの「性別」や「身体」に関する知識や認識に依存する。そのことは、世界に数多くある二つ以上の性別を当然のように受け入れ、それに基づいて「身体」を理解してきた社会の存在を考えればわかると思う。Sexは、だから、その社会の「性別」の理解に依存する。そして社会とともにそれは流動する以上、sexもまた流動する。Sexは、なんの「普遍性」も「絶対性」もない。

結局、わたしはこのような“身体的特徴”に基づく〈定義〉は正しいと思えないし、ましてや一部を排除することを認める〈定義〉に基づく運動が、全ての女性の解放につながるとも思えない。ある女性は、どのような身体であろうと女性である、そうではないの?

じゃあ、「『性別』は『存在』しない」の?「『女性』はただの『主観』や『概念』」なの?— それは、「存在」や「主観」などというものをどう考えるかにもよるけど、「女性」や「性別」はたしかに存在するとわたしも思うよ。ただし、それは「身体」ではなく、わたしたちの認識や、文化、言説のなかに存在する。わたしが言っているのは、genderや社会における「身体」の認識や規範がsexに先行するということ。ある固定的な「女性の身体」があるのではない。様々な女性の様々な身体があるだけだということ。

わたしなりの女性の説明

どうでもいい、あなたの「女性」の定義を書いて見ろ。―「あなたの定義」って表現聞くの、今回が初めてではまったくないんだけど、みんな違和感ないの?「おなじことば」をはなす人たちと日常的に繰り返し使いあってる様々な表現について、「あなたの定義」とか、仮に示せる性質の物だとしても、何の意味があるのだし、なんでそれを個人が定義できるの?、わたしが考えすぎなのかもしれないけど、日常的に「みんな」でつかっていることばの意味は、わたし個人が決めるものでもきめられるものでもないのに、なんで「あなたの定義」がナンセンスでないとおもうのか、理解に苦しんでる。— そのうえで。わたしは日常言語におけるある表現を、意味を変えぬまま定義すること自体無理があると言ってる、だから、「『定義』を〈定義〉した上で『女性』を〈定義〉しろ」とか、最初から無理難題なのはわかってるし、そのような問いかけは意味もないし攻撃にもならないと言ってる。それをわかってほしい。そんなことより大事なことがあることに、早く気付いてほしい。— でも、まあ、それじゃあ納得してくれないよね。だから、少しでも考え直すきっかけになったらうれしくて、WHOの説明を元にこういう〈説明〉を書いてみたのだけど、どうかな?

「女性」の説明E(“女性”)2:「ある社会において『性別』と総称されるもののうちのひとつG(“W”)へ結び付けられている規範や行動、役割、認識などの特徴に、その一部または大部分を拒絶しながらも、近似性があるという自己像を持続的かつ繰り返し了承ないしは志向する人の特徴や行為によって再生産され再規定され続けるG(“W”)に与えられる名。」

G(“W”)」って何ですか?という話にしかならないのが分かりませんか?ーならないと思うんだけど、もう少しめんどくさく書いてみるね

i) ある時点tのある社会sについて、ある集団Gs,t(α)は、社会的意味を持つ集団である。ただし、社会的意味を持つとは、その集団に属していると認識されることが、その時点のその社会において、一般に何らかの規範や権利、地位と結びつくということである。

ii) (i)は、次のことを示唆する:Gs,t(α)以外にも、Gs,t(β)やGs,t(γ) …など、複数のその他の集団が持続的に存在し、かつこれらはなんらかの体系の中で相似性と差異があると受容されている。このとき、その体系をιと名づける。

iii) 次のとき、主体SはGs,t(α)に属していると言う: SはGs,t(α)に属するとされるその他の人の全体が持つとされる規範、行動、役割、認識などの特徴に、その一部または大部分を拒絶していたとしても、近似性があるという自己像を持続的かつ繰り返し了承ないしは志向している。

iv) SがGs,t(α)に属してるとき、「Sのιに関するアイデンティティはGs,t(α)である」と表現する。

v) われわれの今の社会において、ιの一つに「性別」と呼ばれるものがあり、体系ιを構成する集団の一つに、「女性」がある。

vi)  主体Sが体系「性別」を構成する集団の一つであるGs, t(「女性」)に属するとき、『Sのジェンダー・アイデンティティは女性である』と表現する。

「女性」へ結び付けられている規範や行動、役割、認識などの特徴とは―いろいろあるし、一言で書けるものでもないと思うよ。それに、全ての女性は「類縁性」を持っていても全員に共通のものはないし、「典型例」をつくり出すことこそがステレオタイプを強化し一部の女性を周縁化することになると思うから、出すつもりはない。それより、差異を認めたうえで手をつないで家父長制に立ち向かう方が大事だよね―それらがどうしてその性に結びつけられ、その性のものとされたのかを説明して欲しい男女に違いがないのにいきなりジェンダーは生まれないでしょ。―G(“W”)はこのままだと無限後退するのは否定しないよ。だから、太古、初めて「女性」という認識が生まれたとき、それはもしかしたら、妊娠に関わる理解に基づいていたかもね。だけど、元々どう「生まれた」かと、わたしたちが今生きているこのこの社会でどう「結びつけられている」かは違う話だよね。あなたが聞いてるのは、求めているのはいつの時代のどこの「女性」の〈説明〉?ーそれって、場所と時代で「女性」の概念が変わるってこと?ーうん。直観的にわかりにくいかもしれないけど、実はすごくすごく大切なことだと思う。固定された、普遍的な「女性」像を想定するとしたら、どういったところに住む、どんな地位の誰が「女性」を規定すると思う?誰が忘れられたまま、例外だとか、そもそも気づかれすらされぬまま規定され、変わりゆく社会や技術、知識すら反映されぬまま「女性」という概念が維持され続けると思う?ーつまり、nekoさんの説明では古今東西の「女性」を説明できないって事ですか―そうだね、多分大事な点は2つあると思います。1つ目は、この説明では、G(“W”)や、それに結び付けられるさまざまな「特徴」は、常に変化し続けている、ということ。社会構築としてのsexという概念に反対して、「女性は身体によって規定される」という人たちだって、普通に「染色体」などという、見つけられてから大して歴史のない概念を当然のように出すよね。わたしたちが言っているのは、「女性」になにをどれくらい強く結び付けるかは、常にその社会に依存し、変容し続けていること、そしてそれゆえに「女性」や「女性」とされる人の持つ特徴(その一部には臓器に関する規範もあるかもね)は、常に、それを通じて再規定され続けているということ。もし、あなたの求める〈説明〉がわたしのE(“女性”)2で書いた「女性」の特徴の具体的な列挙なら、社会もそしてそれ故に「女性」も変わり続けている以上、なおさらに【古今東西の「女性」の説明】にはなりえないよね。もう一つ。ここまで、わたしはE(“女性”)2は、少なくとも今の、あるいはこれまでの、社会における「女性」の〈説明〉として今のわたしの思いつく限りでは、一番良いのではないかなと思っている。でも、世界や人間の見方やあり方ってさ、たまに大きく変わるじゃん?だから、もしかして、またわたしたちの理解が大きく変化したとき、こんなのは時代遅れで、もしかしたら差別的ですらある「女性」の〈説明〉となるかもしれない。ーそのうえでさ、これって、悪いことなのかな?私たちって、なんのために「女性」を〈説明〉したいんだっけ?すべての女性が、一人残らず、自律的に、自由に、尊厳を奪われることなく生きられる社会を実現するためだよね。ならば、そのためにより適切で、よりよいものとなるように、「女性」の〈説明〉が変わることって、むしろ良いことではない?そもそもわたし達自身、社会の変化とともに、ぶつかる問題も、解決できる問題も、あるいは自己認識すらも、変化してるんだから。そのたびごとに新しい〈説明〉を考え続けていくことって、普遍的な「女性」の説明より、よっぽどよっぽど大切じゃない?よっぽど「フェミニズム」じゃない?

おまけ:愚痴

普遍的な定点としてのsex

「性別の基準は性染色体」言ってる人たちに対して、わたしは「あなたの考える『基準』は、性染色体に関する知識が一般に浸透する前後では変化してますよね」と思うけど、あの人たちからすれば、sexという「真理」が基準で、それをより正確に表せるようになっただけ、となる。そもそもsexが普遍的で固定的で、超越的な「真理」たる基準であるという考えで、技術や時代が進歩してもただその「定点」へ近づいていってるだけと解釈され、都合が悪いものは「例外」と処理され、独自の理由で受け入れるか、棄却し、sexの普遍性が優先される。いくら矛盾を説明しても、いくらその理解が「生物学」的におかしいとか非論理的だとか社会の実態を反映してないとか言っても、こうやって、最終的にはsexの普遍性の証拠として再解釈されていき、挙げ句にはこっちが「カルト」で「お気持ち」で「事実を無視」してて「非科学的」と拒否される。それでミスジェンし、一部の女性や彼女たちの被害を「例外」にし、「女性スペース」を「TRA側陣営」や「TGismカルト」から守るとか、ペニスのあるレズビアンやペニスのある女性を受け入れるレズビアンは「真のレズビアン」でないとか言い始める。いくら実態に即してなくてもsexは普遍的であると信じて疑わないから。どうすりゃいいのかわからん。こういう考えのひとは放置して、コミュニティ内で頑張ってけばいいって言いたいとこだけど、トランスやクィアの子の担任や友人、おやのひとやかぞくもいるだろうに。その人たちのせいで深い傷を負ったり、ここにはもういなくなってしまった人たちもいるだろうに。

Sexは普遍的な定点じゃないよ。社会の共有知識や技術によって身体の理解は変化し、医療の進展によって身体それ自体も予想できなかった変化をさせることができるようになった。ジェンダーに関する理解も変化した。sexも、なにがsexかも、変化しつづけている。もとから定点じゃない以上、こっちが変更しようとしてるとされる「定義」など、少なくとも明文的には存在しないし、また、定義などし得ない。現状のごちゃっとした理解の、不十分な「説明」はできる。でも、その説明も、それの語られる時代や社会に意味は依存する以上、決して普遍たり得ない。結局、やってるのはsexを絶対的なものであるとすることで世界を単純化してるだけ。それは、ぐちゃぐちゃとし不安と抑圧と暴力にあふれた世界を説明するための、そこでつかの間の安全を得るための、戦略なのかもしれないけれど、問題をごまかしているだけでしかない、なんの解決でもない。全然「ラディカル」でもなんでもない。

できることをできる限り最大限に

長々書いたけどさ、結局わたしの言ってることって、ずっと、「わたしたちの表現や行為、会話とかの蓄積に制限されたり影響されたりしながら、わたしたちはさまざまな認識や行為等を繰り返し、それが繰り返されて社会は更新されつづけてますよね。これを意識して日々生きるのが、何よりも大事ですよねー」ってだけな気もする。ALTをつけようも、女性の定義が日々わたしたちの言語使用によって更新されているを理解しましょうも、すべて。だから、「社会」に縛られ、影響されながらも、わたしたちがより自由かつ自律的に「社会」を変える〈力〉を持てる世界にするため、毎日、できることを、できるかぎり、最大限にするしかない。それこそが、(わたし独自の解釈も入ってるけど)「行為によるプロパガンダ」なんじゃないのかなって思う。

参考文献

Butler, J. (1990). Gender Trouble. Routledge.

Butler, J. (2011). Bodies that Matter. Routledge.

Foucault, M. (2012). The history of sexuality: An introduction (Vol. 1). Knopf Doubleday Publishing Group.

Haslanger, S. (2000). Gender and Race: (What) Are They? (What) Do We Want Them To Be? Noûs, 34(1), 31–55. https://doi.org/10.1111/0029-4624.00201

Haslanger, S., & Saul, J. (2006). Philosophical Analysis and Social Kinds. Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volumes, 80, 89–143. https://doi.org/10.1111/j.1467-8349.2006.00139.x

Jenkins, Katharine. (2016). Amelioration and Inclusion: Gender Identity and the Concept of Woman, Ethics126(2), pp.394–421. DOI:10.1086/683535.

Lockhart, Jeffrey [頼 訳]. (2022, Feb 1). 社会的に構築された概念としての性別. https://tanomikun.substack.com/p/fd6

Montañez, Amanda. (2017, August 29). Visualizing Sex as a Spectrum. https://blogs.scientificamerican.com/sa-visual/visualizing-sex-as-a-spectrum/

ウィトゲンシュタイン[鬼界彰夫 訳]. (2020).『哲学探究』. 講談社.

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